2015年03月25日

239:Rock and a Hard Place



どうも、モッズおじさんです。





大学を卒業なさった全国の皆さん、おめでとうございます。

本来は3月20日にこういう事を書くべきなんっすけど、ようやく時間が出来たんで

1995年3月20日は、カルト教団による無差別化学薬品テロがあった日の事を書こうかな。。。

あれから20年。。。俺の中ではホントについさっきの出来事って感覚なんっすよ。

おそらく俺も一種のPTSDなのかもしれない、核心を話す事にいまだ躊躇いがあるんっすよ。



『続きを読む』はワイドショー的な興味本位で読むと後悔します、ご注意ください。


 

そもそも報道というのは事実を然る手段と公正な根拠に基づいて皆様にお伝えする機関であって、

ワイドショーってのはおばちゃんの井戸端会議を放送するバラエティの1カテゴリーなのだ

と報道の現場と故・梨本勝氏をスカウトしたテレ朝の重鎮・Oプロディーサーから教わりました。

その節は大変お世話になりました。






非業界人が認識できてないのはともかく2000年以降は全国の民放各局が

報道とワイドショーの制作技術を共有して垣根が曖昧になって以降信頼が地に落ちたけど

1995年当時は報道と言ったら絶大な信頼があったんっすよ。

3月20日は、6時のニュースで各ローカル局のニュースになる30分以降に関東ローカルで放送する

生活ネタつまり『ヒマネタ』を取材しに埼玉県飯能市まで行く予定だったんっすよ。

そもそもさっきまでニートしてたど素人がのこのこ現場の最前線に立てる事自体あり得ねえ

ニュース流すのにいくら掛かると思ってんだ、なんで普通はこの程度から始めるモンなんっすよ。

阪神淡路の現場に行けた事自体、異常事態で人が足んなかったから止む無く、なんだよ。

その日はタクシー出社が認められない時間帯の集合で舌打ち、までは平和なモンだったんっすよ。






当時は相鉄線で横浜まで出て渋谷まで東急東横線、赤坂まで千代田線と乗り換えてたんっすけど

急行で停まるはずのない都立大学で何故かこの日は停まってしまった。。。ドアは開かない。。。

当時の東横線お決まりの前が詰まっての停車だ、と最初は誰もが思ったんっすよ。

しょっちゅう電車が遅れるんで後に俺はJR東海道線にルートを替えたんだけど

この日はいつになっても走る気配がない。。。さすがに車内は落ち着かない空気が漂う。

ようやく動いたと思ったらまた停まり、ゆっくり動いてはすぐに停まる、を繰り返す。

コレで遅刻は決定。



日比谷線が猛スピードで下り線を駆け抜けていく 満員の車内の乗客達の目がアウシュビッツのそれに見えて…今でも夢に出てくる死を目前に生を渇望する目、目、目…


239:Rock and a Hard Place



学芸大学で車内アナウンスが入る

茅場町で爆発事故が起こった模様で。。。』

意外な事に、車内で動揺は走らなかったのがかえって不気味だった。

阪神淡路行で自腹で契約した、当時はまだ誰も持っていなかった携帯電話で局に電話を入れておく。

泊まり勤務の先輩・丸幸さんの能天気な笑い声が妙に耳に残っている

おそらく駆け出しの後輩を気遣っての、落ち着かせるための配慮だったのだろうが妙に耳に残っている。

それともあまりに非現実的な爆発事故を、俺のウソだと思ったのか。。。

いずれにせよ、全く身動きが取れない状況は変わらない。






局に到着したのは予定より30分遅れだった。

機材室はあの喧騒とは真逆で、平和なモノだった。

先輩のゆずPと挨拶して打ち合わせをしているとOAモニターに霞が関の第1報が映し出された。

夜勤の先輩達はあっという間に局を飛び出した。

それ見た事か、と思っていたペーペーの俺にも即座にカメラマンが付いて、ゆずPに機材を投げ渡され

気付くと取材車…KMのハイヤーに乗り込んでいた。

今思うとこんなペーペーがあのレベルのカメラマンとふたりであの修羅場に乗り込むなんて自殺行為だ

と思うが、知らないとは恐ろしい事だ。。。






テレビでは決して見せる事がない、当時の報道の現実はまさにカオス。

飛び出したはイイけど行き先が決まっていない。

司令塔のデスクに入る情報が処理し切れていないとこうなる、待つしかない。

すぐに市ヶ谷の陸自に行くように指示が出る。。。どうやら埼玉の駐屯地から装甲車が出動したらしい。

陸自正門前に到着すると他局はいない、全くの静寂、その静寂がかえって不気味だった。

どれくらい待っただろう、女性記者と合流するよう指示が出た、待機。。。

この間何の情報も入らない、もちろん霞が関の惨状も全く耳に入って来ない。

やがて局が手配したハイヤーで女性記者がやって来た。

これから我々クルーはこの女性記者の指示下に入る。。。こういう報道の流れを俺はこの現場で覚えていった。

よりによってこんな未曽有の状況が教科書とは俺もツイていない。






女性記者が所属の政治部に連絡を入れ、霞が関に行くよう指示が下る。

場所は営団地下鉄(現東京メトロ)霞が関駅・農林水産省前A7出口前。

記者やカメラマンの指示は逐次メモを取るように、とこの時点で初めて教わる。

そんな初歩的な事も教わっていないようなペーペーで大丈夫なのか???

今の俺なら不安と絶望のどん底に落ちてるね。

そんな自分を憐れんでる場合ではない事は現場に着いて身に染みた。

日本の中枢は全ての駅入り口に規制線が貼られ、各局のFPU・SNGがフル稼働している

溢れ返るテレビ局と新聞社のカメラクルー

おびただしい数の制服警官と時折見える自衛隊員

誰が見ても非常事態だ。。。何も聞かされなくてもすぐ分かる。

各局各新聞社の情報・雑談で飛び交う『毒ガス』『爆弾』『クーデター』の単語でおおよその見当がついて来た。

それがサリンだと、局に帰ってから初めて知らされた。

やがて陸自から装甲車部隊が到着する。。。追いかけるカメラマン、コケる女性記者

コケた記者に俺は足を止めたが、報道の現場で記者に憐れみを掛ける余地など必要ない

事実とは、極めて冷酷で残酷なモノ。






どうやらサリンはあの時回収されたのだろう。。。現場では一切わからない。

俺が運ぶ脚立はカメラマンが立つため、時に待機中に座るための物

不条理にも見える絶対的な上下関係は、互いの命を守るため絶対に守らねばならない事

当時おそらく世界中で最も過酷な現場で理屈抜きで教わった報道の鉄則。

俺は日本の中枢の歩道に直に座り、次に何が来るかを待つしかなかった。

やがてカメラマンが目の痛みを訴えてきた、俺も痛い、周りを見るとみんな目が真っ赤

記者も、カメラマンクルーも、とにかく規制線の中にいる我々は全員目が真っ赤

噂が飛び交う「毒ガスの中和剤が撒かれたか?」と。。。






それからの霞が関は不思議な空気だった。

撤収命令は出ないし、チョイチョイ動きはあるが警察も大きな動きがない。

実況見分とはこういうモノだ、とは後々現場で覚えていったのだが

カメラマンが口を開く「。。。腹減ったな」と。

気付けば時刻は15:00になろうとしていた。

そう言えば朝から何も食ってない。

とはいえココは霞が関、今でこそコンビニが各省庁に入っているが当時そんな洒落たモノはなかった。

色々探し回って、ようやく売店でパック売りのチャーハンを見つけた。

何もないよりマシ、で売店で冷えたチャーハンを買ってきた。

農林水産省なのに、食い物ひとつ売ってないんっすね

と俺がぼやくとカメラマンは初めて乾いた半笑い。

「冗談言える余裕があるなら、まだ大丈夫だな?」

彼ら特有の皮肉なのか、待機中の余興のつもりなのか、真意はわからないまま。

どれだけSNGと現場を全速で往復しただろう。。。

若かったとはいえ、どこからあんなパワーが出ていたのだろう。。。



霞が関のこの地裁前交差点に立つと、今でもあの時の地獄絵図が鮮明に思い出され、身震いします 以上写真はWikipedia より


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目に染みる痛みは日が落ちる頃にはかなり和らいでいた。

それでもまだ目が熱いような、違和感だけは残っていた

。。。茅場町で除染作業が入った、という指示で女性記者と茅場町に向かう。

到着した頃には既に除染に入っていて、今でも時々資料映像でこの映像が出てくるが

軸がぶれまくってなんともひどい照明だ、放送コードに乗せるレベルじゃねえ、と恥ずかしくなる。

当てていたのはもちろん、あの頃のペーペーの俺。

そしてようやく局から撤収命令が出たのは20:00を回ってから。

不思議と疲労感はなかった、不思議な高揚感があっただけだった。






しかし局に戻って感じたあの安堵感は、むしろ生き残った事への喜びだったのかもしれない。

足元何10mか下では確実に多くの人が亡くなってるし、今でも後遺症に苦しむ人々がいる

我々が現場に到着した時点でサリンはまだ中和されていなかった

ひとつ間違えれば我々も。。。

多くの屍の上に立って、自分は今生きている、いや、生かされているんじゃないのか

こんなどうしようもない、さっきまでニートだった俺が何のために生かされてんのか。。。

あの時生と死はほんの細い薄っぺらい黄色い規制線1本で仕切られていたに過ぎない。






ひょっとしたら、全ての人がそうなのかもしれない

生と死はほんの薄っぺらい仕切りがあるだけで、多くの屍の上で我々は生かされてるのかもしれない。

境界線なんていうモノは実に曖昧で薄っぺらい

あのカルト教団と常人を分ける線は、実は簡単に飛び越える事ができる。

あのカルト教団がやって来た事というのは、実は多くの企業でもやっている事で

教団の高度な教育を受けてきた連中が多くの企業が行っている事を手本に模倣しているのだから。

原理原則が一緒なら、あの教団やIS等のテロ集団と企業の境界線はどうなんだ?



男は着るモノに徹底的に気を配るべし いつ死んでもみっともなくないように 生と死の境界線は、おそろくほど薄い


030-d.JPG




。。。なぜこんな事を書いているのだろう。

自慢したいから?こんな駆け出しのペーペーがなんとか仕事にへばりついた話が自慢になるか?

結局先輩のゆずPはカメラマンから「コイツは使えねえ!」と言われた時に代理で行くために待機してたんだから

みっともねえったらありゃしない。。。直属の先輩は有難かった。

多分、茨城の常連さんに言いたいからなんだろうな

俺がこんな風になったのは、阪神淡路と地下鉄サリンで人様の屍の上に立ったからなんだよ?

確かに境界線は曖昧で、分かり辛いほど薄っぺらい

けどその差は生と死ほどかけ離れている。

俺が多少の狂気程度で正気を保っているのは、自分をしっかり見つめないと、って根性だけなんだよ?

阪神淡路と、地下鉄サリンと、その後の一連のオウム事件で最後に求められたのは、冷静な自分だったんだよ?

確かに、自尊心・プライドなんか持ってたって飯の足しにはなりゃしない

けど会社に裏切られて、周囲に疎んじられて、後ろ指刺されるまでに落ちぶれてもまだ2本の脚で立っていられるのは

プライドなんだよ。

もっとも尊重すべきは、人間としての尊厳なんだよ?



全ての卒業生に捧ぐ。


 



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Posted by モッズおじさん  at 18:18 │Comments(0)おじさんのひとりごと

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